リリーチャイルド

百合彦が長めの文章を書く事に挑戦する

希望

女なのになんで女性アイドルが好きなのか、よく聞かれる。

「憧れてるの?」と言われるそのたびに、「憧れっていうのは〈こうなりたいという理想の姿〉だから違うよなあ・・・なりたいわけではないし・・・」と考えあぐねてしまう。

そんな中で、自分がアイドルが大好きな理由がいくつか浮かんだので、文字にしておきたいと思います。

きょうはそのうちのいっこを書く。

 

私は昭和歌謡・昭和史が大好きなので、もちろん昔のアイドルも大好き。

でも私は、昭和のアイドルは「アイドル」である前に「芸能人」つまり「スター」だと思う。

努力が必ず報われるわけではない芸能界。運も実力のうちの芸能界。食うか食われるかの芸能界。

スター性を持って生まれた人間は皆、そんな芸能界に入る。というか、本人の意思にかかわらず入ってしまう。これがモンスターのような昭和という時代だと思う。

 でも今は違う。

昭和という時代が生んだ「アイドル」というジャンルは、歌手でも女優でもモデルでもなく、「アイドル」というひとつの職業になった。

歌は歌うけど歌手ではない、ダンスを踊るけどダンサーではない、可愛いけどモデルや女優ではない。それはとても不定形で、大胆に言ってしまえば「なにものでもない」ことに近い。

つまり現代の幸せとされている、「安全」「着実」の一番遠くに位置している職業。

「かわいいな〜」「たのしそう〜」「チヤホヤされた〜い」だけじゃできない、相当の覚悟がなければできない。

学校どうするの?将来どうするの?一生アイドルじゃいられないんでしょ?!

だからこそ、多くの女の子は一度は憧れを抱いてもリタイアしてしまう。

運良くスタートラインに立ち走り出すことができたとしても、最初は夢や希望で溢れていた瞳が、次第に不安や苛立ちや絶望で濁ってゆく。

ましてや普通の生活をしていれば、苦労とは無縁の人生を送るであろう、桁違いに可愛い女の子たちだ。わざわざこんな困難な道を選ばなくとも、普通の女の子としての幸せのほうが良い、そんな風に思うようになる。そしてやめてしまう。

 

また、同じアイドルでも、男性アイドルに比べて女性アイドルは残酷だ。

それは、「賞味期限」があるから。

1回のコンサート、1回のイベント、1曲の新曲、どれをとっても、「これで最後かもしれない」といつもわたしは思ってしまう。

それは、「解散」や「卒業」という現実的な点においてというよりも、アイドルの「今しかない」という刹那的なものに対して感じる。

 もう戻ってこない、今この時この瞬間しかない。

その一瞬一瞬にかけて、夢中で、がむしゃらにやっている姿はあまりにも美しく、儚いはずなのにとても強くて、格好いい。

 

それを感じた時、心も脳みそも体も、全てが揺さぶられてがんがんまぜこぜにされる。

止めどなく溢れる感情の洪水に支配される。

大好きになる。応援したくなる。

それはすごくしあわせな気持ちだ。

大好きになるともっともっと知りたくなるし、見たくなる。会いたくなる。

そして知れば知る程、見れば見る程うれしくなるし、そんな大好きな子を応援できることがしあわせだなとおもう。(あっ、応援の形についてまたかきたいな)

 

でもそれと同時に、自分の中に眠っている、叶わなかった・実現できなかった何かが呼び起こされる気持ちがする。

その何かはすごく切なくて苦しくて、心の奥底から引っ張り出すのはとてもつらい。

アイドルの女の子たちがあまりにも尊くて、まぶしくて、だから時々見たくなくなる。もうアイドルを好きでいるのはやめたい、と思う。

そのまぶしい光に照らされて元気になることもあれば、その光で自分の醜さや弱さがさらに浮き彫りになって色濃い影を見せつけられることもある。

 

でもその影の自分を乗り越える勇気をくれるのもまたアイドルなのだ。

つらいことや嫌なことだって絶対絶対たくさんあるのに、アイドル以外の選択肢を選ぶことだってできるのに、それでも、アイドルでいてくれている。

ステージに立ってくれる。楽しかったと言ってくれる。

「やって良かった」「ここまで頑張ってきて良かった」という一言を聞くたび、わたしたちファンは救われたような気持ちになる。

「アイドルになってくれて、ありがとう。」と思う。

いつのまにか、「よし、わたしももう一度がんばってみよう」と思わせてくれて、助けられている。

今まで数えきれないほど、アイドルに救われてきた。

 

だから私にとって、アイドルとは「希望」なのです。